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『シノン。人の一生にはね、同じだけの喜びと悲しみがあるのよ。どんな人でも、それは同じなの。たとえ今がどんなに辛くても、神様はそのように人をお作りになったのよ。だから……泣いてはだめよ』
カビ臭え、ぼろぼろの部屋の中の、小さな寝台の上。
痩せた手でオレの頬を撫でたお袋は、そう言って精一杯の笑顔を浮かべて逝った。
オレと同じ色の髪と、同じ色の肌。顔は……それなりに似てたっけな。目は親父に似たらしいけど、よく「似てる」って言われたからきっとそうなんだろう。
神様、か。
あの時のオレは十二歳、若くしてオレを産んだお袋はやっと三十歳を迎えたばかりだった。
親父になるはずだった男はオレが生まれる前に山賊だかなんだかに殺されて、お袋はそれからオレを女手一つで育てた。
それこそ、オレを食わせるために爪に火を灯すような苦労続きでな。
だから、そんなお袋がやっと楽になれるあの瞬間、オレは泣かなかった。
だって、あんまりじゃねえか。あんなに神様を信じて、苦労しかしてねえお袋が最後に見るのが、必死で食わせた息子の泣き顔なんてよ。
ガラでもねえけど、あれが多分、ガキだったオレにできた精一杯の親孝行だったんだと思う。
それからは、まあ……親を亡くしたガキのお決まりのコースだな。
オレがいた街の教会は貧乏でそれ以上孤児を抱える余裕はなかったし、紹介状を持たされて流れて行った隣町の教会はもっと最悪。神父は神様よりも金が好きときた。
初対面の時にやけに肥えた神父だと思ったら、案の定だ。とりあえず久しぶりに寝台で寝られると思ったその夜、夜中に人買いを呼び込んでオレを売り飛ばそうとしやがった。
悲しいかな、オレは治安のいい住処には縁がなかったんで鼻だけは利く。さっさと不穏な空気を察して逃げたさ。
ムカついたから、あのデブ神父が自慢げに磨いてた銀の燭台を蹴飛ばしてな。
幸い、オレはガキの頃から指先が器用なタチで、どこにもぐりこんでも大抵のことはできた。
職人ギルドの手伝い募集であちこち行って、見よう見まねの下働きでもそれなりに使えたらしくて、重宝されたりな。
オレも食うために必死だ。その気合が良かったのかも知れねえ。
山賊が暴れるたびに雇い主が死んだり、自分が逃げたり、売られたり、また逃げたり、……で、気がつくと最後は傭兵になっていた。
それも弓を人並み以上に使えたからなんだが、それでもグレイル団長と出会わなかったら、十代のうちに野垂れ死んでたろうな。
そういう意味じゃ、ここに来てからのオレの人生はオマケみてえなモンだ。
「………つっても、こんなことは予定外だったけどよ」
「なにがだ?」
木漏れ日がちらちら揺れる天井を眺めて呟いたのを聞きとがめられて、オレは深いため息をついて起き上がった。
裸の肩から薄い毛布が滑り落ちる。……昔っからそうだ。こいつが寝床にもぐりこんだら、洗濯の回数が増えるんだよなァ。
ガキの頃は寝小便、ちょっとでかくなってからはミストとヨファ、ボーレとまとめて大風邪ひきやがってここで寝かせて看病させられたし、今は……あぁ、考えたくねえ!
「こっちの話だ。てめえ、いつまで人の寝床に入ってるつもりだよ。とっとと出ろ! 洗濯できねえだろ!」
「……さっきまで寝てたのはあんただと思うが」
「うるせえ。オレはてめえと違ってやることが多いんだ。だらだらしてせっかくの休みを潰したくねえんだよ」
懲りねえ頭を一発殴って先に寝台を降りようと片足を下ろしたところで、諦めの悪い腕がオレの腹に回る。
背中に当たる固い前髪がくすぐったい。……ったく、いつまでもてめえの都合ばっかだな。こいつは。
ガキなみに体温が高いから、この季節は便利っちゃー便利なんだけどよ。
「おい、コラ。甘ったれてんじゃねえぞ」
「休みの日ぐらいしかできないんだから、あんたの体温をもう少し味わわせてくれ」
「知るか。オレはもう満腹だ」
「俺は全然足りない」
そらまあ、二十歳じゃしょうがねえかもなぁ。
それでも、昨日、今日初めて覚えたわけじゃあるまいし。
そろりと腰骨と背骨が合わさる部分をざらついた舌に舐められて、俺はため息をつきながら固く腹に回されたアイクの腕を掴んだ。
チビの頃は手を繋いで歩いてやったこともあるのに、いつの間にかオレより太くなった腕はビクともしねえ。
そのまま背中のくぼみを下ろうとする唇を感じて後ろ手に回した手でアイクの頭を掴むと、オレはきつく青い髪を引いてどうにかアイクを背中から引き剥がした。
「いてて…! シノン、ハゲるッ!」
「へッ、おまえがハゲる体質かよ? しつこい男は嫌われるって知らねえのか?」
「俺はしつこいのか?」
おいおい、自覚がねえのかよ!
思い切り真面目な顔で言われてガクリと頭が落ちかけたがそこを堪えて、オレは横の椅子にかけておいたシャツに袖を通した。
「ああ、しつこい。自覚しとけ」
「……わかった」
渋々頷いたアイクに笑いそうになったが、ここで甘い顔を見せたら元の木阿弥だからな。
オレはさっさと寝台から降りて着替えることにした。
大体、だらだらといつまでも裸でいるからサカるんだ。服さえ着ちまえば気持ちの切り替えになるからな。
これ以上のろのろしてたら本気で叩き出されるのがわかってるんだろう。ようやく起き上がったアイクは、腰を隠すのもおざなりに渋々と床に散らばった自分の服を拾い集めた。
シャツを羽織る剥き出しの胸元と背中が目に入る。ちょっと前までは身長ばっか伸びやがってまだまだ線が細かったのに、分厚い胸板や筋肉が浮き上がった背中は、もう一人前の男のものだ。
やけにきれいな肌が若さを伝えてくるが、この背中に縋って爪痕を残すのは細い女の指の方が似合うと思うんだがな。
……でかくなりやがって。
伊達に傭兵暮らしが長いわけじゃなく、着替えは早い。最後に青い髪をかき上げてオレを見たいつもの不遜な面のアイクに、オレは顎で「出て行け」と戸口を指した。
「俺が汚したんだ。手伝うぞ?」
「いらねえ。甘ったれんのは夜だけにしな」
「俺はあんたを甘やかしてみたいんだが」
「阿呆か。寝言は寝て言え」
腕を組んでアイクが出て行くのを待つオレの前に立ち止まると、アイクはオレより手のひら一つ分近く高くなった視線を下ろして、後頭部を包み込む。剣使い独特の硬い手のひらで。
「………シノン」
のぞき込んでくる目も青い。海の一番深い部分みてぇな青は、冷たい色のはずなのに持ち主の気性が出てんのか、なぜか熱く見えるのが不思議だ。
言葉が足りないと思われがちなアイクは、……いや、実際、そんなところは否定できねえんだけどよ、この目にはすべての感情を見せる。
顔だけ見たら鉄面皮なんだがな。目を見れば大体のことはわかるってことだ。
今は、やけに甘くて熱っぽい。そんな眸を見せる相手がオレってのはどうなんだと思うが、自覚はねえだろうな。
「荒れてるな」
「唇か?」
返事の代わりに指の腹で乾いた表面をなぞると、少しだけ皮がむけた部分がひっかかる。
「こんな口で相手に食いつくのは礼儀知らずだぜ。気をつけな」
「わかった。あんたが痛いなら気をつける」
いや、だからオレの話じゃねえってのに……まぁいいか。どうせ聞きゃしねえ。
「んッ?」
「何度も言わせんな」
この程度はもう慣れっこだろうな。そのまま睨んでも怯みもせずに重ねようとしてきた唇を手のひらで押さえると、オレは生意気に閉じ込めようとする腕からすり抜けた。
ったく、日も高い内にガキに好き放題させるほどオレは暇じゃねえよ。
そのまま窓を全開にしてまだ刺すように冷たい風を入れると、オレはまだ下ろしっぱなしだった髪を結んで毛布を干した。
放っとくとまたアイクがあれこれ手を出して来るからな。水汲みでもしてこいと言いつけて部屋から追い出す。
この貧乏傭兵団じゃ、休みは貴重だ。でかい図体で無言で「自分に構ってくれ」と訴える姿はちょっとおかしいが、そんな姿を可愛いと言ってやるほどオレの心は広くねえんだから仕方ない。
大体、台所に行ったらオスカー辺りにメシを勧められてオレのことも忘れちまうさ。あいつはまだまだ食い盛りだからな。
「……平和なことだぜ」
オレの部屋は二階だ。開けっ放した窓の下からは、向こうも洗濯中らしい。ミストとヨファの賑やかな声が聞こえる。
小鳥の鳴き声と、ちょっと調子っ外れな副長のハミング。薪を割る威勢のいいボーレの掛け声。ガトリーはちょっと離れた木の上で新しい小鳥の巣箱を修理中だ。いつもならそこに加わるキルロイは下の街で臨時の神父をやってるし、あと数日は戻ってこない。
副長のハミングが行ったことのある港町の子守唄だったのを思い出しながら、オレはすっかり乱れた寝台のシーツを剥ぎにかかった。
そこに生々しく残る昨夜の名残は見ないようにして、オレはシーツを丸めて大きなため息をついた。
シーツに残ってるのは、行為の名残だけじゃねえ。その最中が一番強くなる、アイクの体臭もだ。
その匂いはシーツだけじゃなくて、オレの全身にも絡みつくように残ってる気がした。
自分なりに納得したつもりでも、やっぱり気が重くなる。まさか、あいつとこんな関係になっちまうなんてなぁ……。我ながらどうかしてる。
団長に合わせる顔がない。そんなことを言ったら、アイクは「親父には関係ない」と怒るだろうが、それは年長者だからこその気持ちだ。
大体オレたちは、いや、オレが一方的にか。反発しかしてこなかったってのに。
一度は殺し合いまでした仲なのに、追い掛け回すあいつに根負けする形で、オレはこの関係を受け入れちまった。
まあ、思い通りにならねえ年上の相手にちょっとのぼせてるだけだ。その内冷めるさ。
それはわかってるんだが、そんなガキに振り回される自分を受け入れられるほどには、まだオレも人生を達観できてねえってことなんだろう。
当たり前だな。野郎同士、肌を重ねるとなったらどっちかが女役をやらなきゃならねえ。はっきり言って、苦行だ。
そのくせ、最中にあるのが痛みだけじゃねえってのが問題でもある。
渋々とでもオレが折れた夜には、あいつがあんまり嬉しそうに全身でぶつかってくるから。
だから、まあ…なんだ。突き放せなかったって部分はあるのかも、な。
すっかり入れ替わった空気を感じて窓を閉めて立ち上がると、オレは汚れものを抱え直して部屋を出た。
「あ、シノンさん!」
「これから自主練か?」
「うんッ。おはよう、今日はゆっくりだねー」
「休みだからな」
一階に降りる途中で賑やかな気配が寄って来た。オレの弟子のヨファだ。
こいつもチビだったのにいつの間にやら背が伸びて、もう少しでキルロイと並びそうになってやがる。
「あのね、最近、弓の調整が上手く行かないんだ」
「調整?」
「うん。それで、どうも的を狙い辛くて……どうしよう?」
どうしようもなにも、そんなことは自分で考えろよ。それも修行だろうが。
そう言うのは簡単だが、オレに訴えてくるならこいつなりに精一杯悩んだ後だろう。
その程度にはもう叩き上げたはずだしな。
「オレの弓でもか?」
「だめだった。それに、折れそうだし」
弓の作り方も一から教えたはずだが、こいつはいつまでも不器用だからな。てっきり弓の作りが悪いのかと思って訊くと、ヨファはしょんぼりしながらオレの後についてくる。
だが、それでオレは理由がわかった。あぁ、そういうことかよ。
「わかった。じゃあオレが調整してやるからおまえの弓を持ってきな。それと、オレのやった弓はもう使うな」
「ええ!? そんな、ぼく、もっと練習するよ! シノンさん、ちゃんと使いこなすようになるから、そんなこと言わないで!」
洗濯物を抱え直しながら言うと、ヨファは文字通り仰天して最後にはほとんど泣き声で訴えてきた。
「ヨファ? シノン、ヨファがなにか……」
身体はでかくなっても声はまだ甲高いガキのものだ。ヨファの半泣きの叫び声が台所まで届いたらしく、オスカーまで心配そうな顔で出てきた。
ああもう、面倒な兄弟だぜ。――ったく!
「なんでもねえよ。弓の話だ。ヨファ、めそめそしてねえで人の話は最後まで聞け」
「だ、だって…、だって……!」
「だってじゃねえよ。べつにおまえが悪いわけじゃねえ。オレのやった弓がおまえにはもう合わねえだけだ。身体ができたあとならともかくまだ成長期なんだから、成長に合わせて細かい調整をしなきゃ使い難くて当たり前だっつってんだ」
「ぼく、調整してるつもりなんだけど……」
「おまえのやり方は調整じゃなくて、ただの修理だ。ったく、力ばっかつけるからすぐ緩んだり外れたりするんだろうがよ。矢も豊富にあるわけじゃねえんだから、早えとこ敵を一撃で落とせるようになりやがれ」
そう言うと、赤くなったヨファが「は〜い」と小さくなりながら返事して、その様子にやっと安心したんだろうさ。オスカーちょっと笑って引っ込んだ。
「シノンさん、それ、洗濯物だよね。ぼくが洗うよ!」
「気にしなくていいから鼻水拭いて弓を取ってきな」
「でも、汗臭いでしょ?」
「いいから行け!」
「は、はいッ」
ガキなりに気を遣ったヨファがオレの腕から洗濯物を取り上げようとしたところを怒鳴りつけると、飛び上がって踵を返す。
普段のものならいざ知らず、ガキにこんな汚れ物を任せられるほどオレも無神経にゃなれねえよ。
大体、あいつに任せたらなんでもかんでもお湯で洗おうとするからな。落ちるもんも落ちなくなる。
「シノン、メシは?」
「後で食う。オスカー、オレの分残しといてくれ」
「わかった。じゃあアイクが食べ終わったら洗い場に持っていかせるよ」
「あぁ、それでいい」
食堂のアイクとオスカーにそう答えると、オレは固い扉を開けて天気のいい表に出た。
今日は洗濯と、買い出しのついでにミストに頼まれたものを引き取りに生地屋へ行って、ついでにギルドへの顔出しか。
ちょっとした遠征仕事から帰ったばかりだしよ、まだ酒もゆっくり飲めてねえ。急な仕事がなけりゃいいんだがな。
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